五 十 四 番 |
高龍山福寿院大聖寺(廃寺) 麻疹不動として名高い不動堂でした 御本尊、不動明王座像(像高3m) 移し寺、愛媛県近身山延命寺 ご詠歌、くもりなき鏡の縁とながむれぱ 残さず影を写すものかな |
石 交 差 点 北 方 |
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小文間西方の大聖寺は、寛永七年(1630)尊栄の開祖です。真言宗智山派の祈願寺です、取手では智山派は珍しかった。 ![]() ご本尊の不動明王は慈覚大師の作と言われ、像高一丈3m、眼光は爛爛としております。 不動明王は、僧尊栄に中村一族が協力して作らせたものです、この不動明王の頭部の中には、一刀三礼で精魂込めて創られた不動明王像が納まっているそうです、 また、腹部からは密文が見つかっており「これを不動明王の誓約速やかにして、その利益余尊に超え一切の魔軍を焼き尽くして、麻疹の難を除く」とあります。 はしかの病は難病であった時代には、麻疹不動として近隣からの参拝者で多いに賑わったそうで遠く土浦や下館、佐倉や江戸からも参拝に来られたそうです。 「掃除をしていた老婦人」より聞取り。 境内には色々の石塔があります、その中に蚕影山神社と蚕霊供養塔が建っています、小文間は昔し養蚕が盛んでした。 ![]() 中村熊次郎寿蔵碑等、更に土砂加持記念碑のほか、相馬霊場札所、西国秩父、坂東の観音霊場などを周った時に講または個人で立てた石碑が沢山祀られています。 明治35年夏、中村熊次郎翁は不動尊の腹中から秘文を発見した、堂前の石碑にその秘文が記されています。 寛永七年、法印権大僧都 尊栄という高徳僧が天下安泰と国土豊饒(ほうじょう=五穀豊穣)の聖で全国行脚の途、相模、上州、秩父に不動明王を祀ったと云われています。 寛永七年九月八日 府川正学坊祐一之 筆 |