ホ | ム |
観覚光音禅師 | 観覚光音の著書 | 相馬霊場年表 | お遍路順路 |
相馬霊場開基僧 | 取手市史との違 | 光音と取手年表 | 霊場開基時順路 |
◆ 文章を読上げます、Windows10で動作確認済。
相馬霊場の開基僧、観覚光音禅師

光音禅師座像
取手の春は「お遍路さんの 鈴の音(ね)と ともにやって来る」と詠われているように、相馬霊場のお遍路さんの鈴の音は春を告げる音でした。
毎月廿一日は「お大師様の縁日」で、梅の花が咲く二月頃からお遍路さんの旅は始められたようです。
新四国相馬霊場八十八ヶ所について
「新四国」又は「準四国」という霊場もあるが、「新」とか「准」が付く大師霊場は、全国に数えきれないほどありました、しかし激減しているのが現状です。
新や准が付く四国霊場とは、徳島県、高知県、愛媛県、香川県の四国の大師霊場の各札所から、御砂を頂いて地元に持帰り、新たな札所に大師さまの像を祀り、頂いてきた御砂を埋めて霊場札所とした所をいいます。
下総の国には、七十七ヶ所もの新四国霊場が文献や伝承、口承で確認されているのですが、現存しているのは少なく柏、運河、印西、佐原、石下大師などの数ケ所しか八十八ヶ所全てが残っている霊場はありません。
相馬霊場は、下総の国では古いほうですが、千葉県野田市の西高野山報恩寺の霊場が最も古く、関東一古いとも言えます。
次に、千葉県印西市の印西大師。相馬霊場と三番目に位置しています。
相馬霊場の開創は、宝暦九年(1759年)頃から安永四年(1775年)にかけて、観覚光音禅師という大鹿山長禅寺の僧により、当時の大衆を 巻き込んで創建されました。
相馬霊場の完成には諸説あるのですが、私ども 相馬霊場巡る会では、観覚光音禅師が安永四年の秋に出版している「霊場石土」という版本によって霊場は完成と推論しています。
よって、取手市史の主張する、石の柱の建立日を唱える「石柱説」とは違います。
相馬霊場創始者観覚光音禅師通称名伊勢屋源六

大師道道標
江戸時代中期の人物である伊勢屋源六、正徳元年(1711年)~天明三年(1783年)は、現長野県の信州佐久郡海尻の出身で井出観三丸(かんざんまる)といい、井出三左衛門の三男でした。
現在、長野県の松原湖の近くを流れる千曲川沿いに、八ヶ岳高原鉄道が走っていて「海尻」という駅があります。
・・・話がそれますが、海尻の有名人として、演歌歌手の千昌夫さんによって大ヒットした「北国の春」はご存知だと思います、
白樺 青空 南風 こぶし咲く あの丘 北国のああ 北国の春」で始まるこの曲、作曲は新潟県人の遠藤実ですが、作詞家は井出はくといい海尻の出身です。…話を戻します。
観覚光音の生い立ち
井出観三丸は十三才の時、志を立てて江戸浅草で呉服商を商っていた、伊勢屋庄右衛門にて奉公を始めます。
三十才のとき、伊勢屋主人庄右衛門の命により、常陸国筑波郡の豊体(ぶたい、現在のつくばみらい市)の豪商である、渡辺家に赴きます。近年県会議員をしていた渡辺太郎の本宅です。
渡辺家の身代が傾き、営業不振に陥り救済のために赴きました。延享二年(1745年)、再建に成功しました。
本来ならば浅草に戻る処、取手宿で独立します。この時に伊勢屋庄右衛門からは伊勢屋の屋号を受け、取手宿の染野源左衛門より店舗を借用、更に源左衛門の「源」を取り「伊勢屋源六」と商人名を名乗りました。
再興した渡辺家からの謝礼金や反物などを元に、穀物商を営み繁盛していました。
商いの傍ら取手宿の繁栄の為に尽くし、多くの人々から慕われたといわれています。
明治時代の初めころまで行われていた、月六回の「六市」は、近在からの多くの人で賑わったそうです。
だがその後、源六は嫡男を亡くしました。死因は不明です。
源六は妻を他家へ縁付かせ一人で商いを始めます。「豊体屋 豊体屋」と騒がれて、店を三店に増やす程だったそうです。
宝暦八年(1758年)、源六は長禅寺の幻堂(げんどう)和尚と親しくなり、玄堂和尚から頼まれて、百観音堂宇改築の着手に取り掛かります。
翌年の宝暦九年、出家して観覚光音禅師となった源六は、下総の国相馬郡の取手宿や、我孫子の村を、経文を唱えながら巡り、貧者への施しや病者への救いを行いました。
同年、遍照金剛のおられる高野山の金光院に赴き、十七日間の修行に励んだといいます。
おそらく、四国三郎吉野川沿いの八十八ヶ所の風景を、坂東太郎沿いの相馬霊場へ写す構想は、このころ考案されたものと思われます。
宝暦13年、荒廃した長禅寺の百体観音堂を「さざえ堂」に改装し三世堂とし、更に新四国相馬霊場を開設する為に八十八回も四国を訪れたといいます。
観覚光音禅師の活躍もあり、当時の取手宿は大師信仰と観音霊場の町として近隣に名をとどろかせ、宿場全体が活気を帯びて繁栄しました。相馬百八十八霊場、または取手の百八十八霊場といわれました。
晩年は 取手市白山にある金刀比羅神社、元長禅寺移転前の在地の境内に隠居していましたが、天明三年十二月十七日に、病で天命を全うしました。
辞世の句、「日々に 運ぶ歩みの 後消えて 行くとも知らず もとのすみか」、観覚光音禅師 享年七十三。 【参考資料】一部分取手町郷土史資料集第二集より。
光音講とは、海尻村の一族による「講」組合組織でした。光音講は観覚光音禅師の没後に組織された講で、毎年、代参を立てて新四国相馬霊場八十八ケ所を巡拝する為の講でした。
相馬霊場参拝時の取手での宿泊所は、長禅寺下の伊勢屋が定宿でした。
代参は結願後の帰路に於いて成田山新勝寺、宗吾霊堂を参り、船橋経由で千葉街道(現、国道14号)から江戸に入り名所見物巡りの後、郷里に戻り代参役の報告と光音講の仲間へのお礼と酒宴をもって、役割の交代を行い終えたといいます。
大正末期に光音講は途絶えましたが、観覚光音禅師没後の二百回忌の記念行事が昭和59年に行われた際、取手市が関係者を招待し参拝されたということです。
相馬霊場の歴史、取手市史との違い。

第一番霊山堂
現在、出版中の「取手市史社寺編、第二章取手市の社寺の歴史、第一節の三、村堂と民間信仰」に於いては、「霊場の石柱建立記述日が 札所建立日」として記載されています。
しかし、この説には重要な疑問が発生します。
平成になって、水戸の県立博物館に、安永四年出版の「霊場石土写記」という観覚光音の著書があるという情報でした。
安永四年版の光音著「霊場石土写記全」より

霊場石土写記
願主、観覚光音禅師の序
粛大悲願の発して西国・秩父・坂東及ひ四国霊仏・霊社の尊像を移し来て、此地に道場を造建し、而後子思ひらく、昔 慈寛大師入唐の時、五台に文殊慈現の相を礼し、誠に感喜斜ならず、故に其土の霊石土塊を袖にし朝にかへり、忽叡山に於いて文殊桜及ひ獅子を彫刻して、霊石土を其礎四足下埋云云、予其事跡観して此地西東大悲山川陸地の霊石土を担ひ来て、道場の礎下に埋、尊像を安置し、朝暮礼拝供養し奉る、然と雖(いえど)四衆の輩大悲の感応群ならず、故に予が錐毛に綴りて其功徳を記すと尓云、夫菩薩ハ一体分身にして万法一如の明鏡を照らし、一切衆生を救護し給ふ、いわんや借仰の輩ハ火盗水難・病難・万難替消なさしめ、福聚海無量を授ケたまふこと明らかなり、殊更女人は衆人愛敬を結び給ふ、是菩薩の功徳世に挙算るに遑(ひま)あらず、故に四衆の輩誓なば頓に無常菩薩を証せんこと秘也尓云、 安永四乙未年九月、願主 光音護白
相馬霊場のガイド本というべき内容より。
石柱の必要性は、霊場が開基された後で十分であり、開基時でなくてはならない理由がない、ましてや寺社仏閣境内の中に建立されているのであれば、寺社仏閣の結界門としては 山門や石柱が必要であるだろうが、境内に設置の場合であれば、それほど重要ではないと考える。
我孫子市湖北の正泉寺の様に、大師霊場建立の際、光音禅師と同行して、檀家や一部の村人の代表とともに四国へ巡礼して、正泉寺境内に霊場を移し、石柱も建立と記されている場合がある。だからと言って、全ての札所に該当するとは、いえないのではないだろうか。
更に、問題視しなければならないのは、観覚光音禅師という高僧が、完成もしていない霊場巡拝する為の木版刷りの本を出版したりするだろうか、ありえないと思われる。
霊場石土が明らかにしているのは、安永四年には、完成していなければならない、と語っているとも解釈できる。
安永五年、同八年などの石柱があり、石柱イコール相馬霊場完成説では、相馬霊場開基当初の参拝に於いては、既にガイド本まで出版されているのに、お遍路さんが来ても霊場が存在しないという事になるではありませんか。
相馬霊場の場合のお遍路方法

相馬のお遍路さん
四国霊場の場合は、徳島県の第一番霊山寺の発願から二番、三番と巡り、香川県の第八十八番大窪寺まで、結願と札所番号順に巡りますが、相馬霊場の場合は、若干違いがあるので説明します。
長禅寺第一番霊山堂の発願から、同境内の第五番、八坂神社境内の第三番、念仏院の第二番と札所番号順ではありません。
更に最後の結願寺は、第一番のある長禅寺に第八十八番があるので、もう一度戻って来なければなりません、すなわち一周することになります。
理由は、創建時に地域の人々からの要望と光音禅師自身の願望によります。全国的にみても、新や準の四国霊場は順不同が比較的多いようです。
新四国相馬霊場を巡る会では、順不同方法で巡拝します。また、全十コースに分けて、その都度地域別分けしたコースをバラバラに歩きます。2年間かけて歩くので、その時々の季節や風景を 考慮しての結果なので、ご了承の程お願い致します。但し通常は、お遍路さんは、前回巡拝して打ち止めした札所の続きから続行、打ち始める場合が多いようです。
巡拝の順路に規定がある訳ではありませんので ご自由な順路でどうぞ。
相馬霊場のご詠歌は四国霊場と同じ
相馬霊場のご詠歌は、一番から八十八番まで全て四国霊場の各霊場の各ご詠歌に同じです。
相馬霊場には、番外で89番があります。我孫子市布佐平和台の浅間神社前に在り、観覚光音禅師が勧進しているので、相馬霊場八十八ヶ所の一部とされています。
四国霊場は88番迄なので89番のご詠歌はありません。従って、相馬霊場第89番のご詠歌は、相馬霊場のオリジナルという事になります。
八そや九に よろずの願い富士浅間 大師の恵み ふかき手賀沼
第89番に、万年の願いを富士山浅間神社(富士山噴煙の沈下の神)に、弘法大師の恵みをもって手賀沼に及ぶよう請う。
百一番三世堂(さざえ堂)

101番さざえ堂
観覚光音禅師は、もう一つ、大師堂ではないが百一番観音堂を建立しているのでご紹介しておきます。
寛永13年に改築が完成した、さざえ堂建築の三世堂です、百一番とは、西国三十三観音霊場、坂東三十三観音、秩父三十四観音写しの百体と元の百体観音堂に祀られていた、快慶作の十一面観世音菩薩立像が 収められたお堂により、百一番となっているのではないかと考えられています。
御詠歌。三世堂の軒下にある「施無畏(せむい)」の扁額の下、或はワニ口の後ろに御詠歌があります。
補陀落は いずこなるかと思いしに 今、大鹿に 法の花山
観音の極楽浄土は何処にあるのだろう、と思っていたが大鹿山長禅寺に、法華の浄土はありました。と記されています。
光音と取手の歴史年表
年 号 | 出 来 事 (取手に聖地を開創した僧侶) |
---|---|
承平元年(931) | 将門勅願所として長禅寺創建、将門没後、御厨三郎吉秀が守り本尊十一面観音奉納(伝承) |
承久元年(1219) | 義門和尚なる人物が堂を再興(伝承) |
文暦元年(1234) | 12月織部時平が五間四面堂宇を再建、三千仏三壇安置入仏安坐、三世堂と号す。 其の後乱世、安阿弥様(あんなみよう)慶派の快慶作の十一面観音安置し三百余年(取手市史) |
慶安二年(1649) | 徳川家光より寺領五石三斗御朱印賜る。正徳・享保期の住職幻堂、百観音堂再建の心願 |
元禄六年(1693) | 長禅寺、創建の地の大鹿山から新町に強制移転(取手市史) |
宝永八年(1711) | ◆ 元日、光音は、井出三左衛門の三男として生誕、幼名観三丸(JR小海線海尻駅前生家有) |
亨保元年(1716) | 布施弁天の本堂完成 |
亨保九年(1724) | ◆ 十三歳の時、浅草の呉服商伊勢屋へ奉公に入る |
元文三年(1738) | 木下(きおろし)街道に対して、布佐の「なま街道」は幕府公認の鮮魚用街道となる |
元文五年(1740) | ◆ 常陸国伊奈村豊体の渡辺家再建の為に活躍し、4年後に成功する。 烏帽子名(えぼしな)善右衛については不明、井出善右衛門は別人で存在している、 |
寛保元年(1741) | 五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ) 現存しないが三匝堂のルーツを建立。 |
延享二年(1745) | ◆ 取手上町で木綿の商売を始め伊勢屋源六と名のり取手本陣近隣に妻子と暮らす。 |
宝暦八年(1758) | ◆ 嫡男を亡くし、妻を縁付かせ縁切りし、一人で商いを続ける。 |
宝暦九年(1759) | ◆ 幻堂和尚の法弟となり出家して観覚光音禅師となる。 |
宝暦十三年(1763) | ◆ 住職春翁の代、三層構造(三匝堂形式)の殿宇、白嗣殿(はくしでん) 再建なる殿宇に、本尊十一面観音、西国秩父坂東各々の百観音を三壇に配置構成し安置。 入仏導師役先住の幻堂、願主は新四国相馬霊場開基の光音が勤める(取手市史) |
明和七年(1770) | 取手、我孫子、柏の大旱魃(かんばつ)。翌年も干ばつ。 |
安永三年(1774) | ◆ 四国霊山寺より一基を写す、長禅寺の霊山堂第一番。 |
安永四年九月 | ◆ 観覚光音禅師が木版刷りの案内書「霊場石土写記」を出版、(水戸博物館所蔵) |
安永八年(1779) | ◆ 大鹿山の長禅寺境内に供持所として琴平社(金刀比羅神社)を設営(琴平社由緒) |
天明三年(1783) | 七月、浅間山大噴火、利根川手賀沼は洪水となる |
同年十二月 | ◆ 十月頃から臥せ、十二月十七日観覚光音禅師病死、享年七十三、翌日火葬。 |
寛政二年(1790) | 大風で白嗣殿百観音が破壊(取手市史) |
寛政四年(1792) | 埼玉県児玉成身院、百体観音堂(栄螺堂)建立 |
寛政八年(1796) | 福島県会津市、円通三匝堂建立(国指定重要文化財) 建立 |
寛政十年(1798) | 群馬県太田市祥寿山曹源寺(しょうじゅさんそうげんじ)栄螺堂(現本殿)建立 |
享和元年(1801) | 三世堂再建、堂宇棟札の銘文に宝暦の白嗣殿の古材が再利用された。(取手市史) |
文化元年(1804) | 小林一茶が度々訪れるようになる。馬橋の斗囿、流山の双樹、守谷の鶴老、布川の月船 |
明治元年(1868) | 神道と仏教の分離を図る神仏分離令が発せられる。廃仏毀釈運動が起きる。 |
明治四年(1871) | 社寺上知令と相まって、余波は寺院の荒廃・廃合廃寺・排仏、僧侶の神官転身の激増。 長禅寺の新町移転後、創建地大鹿山長禅寺境内は奉還を免れた。 |
明治24年(1891) | 取手に在住していた、菊池幽芳の自叙伝「蠑螺堂の落日」(未確認)と私小説「白蓮紅蓮」 (別項で掲載)に、明治二十四年頃の長禅寺境内三世堂の情景記述がある。 |
明治30年(1897) | 明治28年「古社寺調査事項標準」を定め、「古社寺保存法」公布。 |
明治33年(1900) | 住職文岳師檀家の勧進で境内の現観音堂(三世堂・さざえ堂)大修復(取手市史) |
安永4年版
霊場石土写記掲載の順路と移し寺
順番 | 札所番号 | 札所名 | 地名 | 寺社堂名 | 移し寺 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 第一番 | 釈迦如来 | 大鹿山 長禅寺 | 霊山堂 | 阿州 霊山寺 |
2 | 第五番 | 地蔵堂 | 大鹿山 長禅寺 | 長禅寺 境内 | 阿州 地蔵寺 |
3 | 第四番 | 不動院 | 台宿 | 不動堂 | 阿州 大日寺 |
4 | 第廿番 | 地蔵堂 | 台宿 | 地蔵堂 | 阿州 鶴林寺 |
5 | 第十番 | 観音堂 | 台宿 | 観音堂 | 阿州 切幡寺 |
6 | 第六番 | 薬師堂 | 台宿 | 薬師堂 | 阿州 安楽寺 |
7 | 第三番 | 西照寺 (廃寺) | 取手東 | 八坂神社 | 阿州 金泉寺 |
8 | 第二番 | 念仏堂 | 取手東 | 念仏院 | 阿州 極楽寺 |
9 | 第九番 | 常円寺 (空寺) | 井野 小堀 | 水神宮 境内 | 阿州 法輪寺 |
10 | 第十三番 | 加納院 (跡地) | 吉田 | 八幡神社 | 阿州 一宮寺 |
11 | 第七番 | 本泉寺 | 吉田 | 本泉寺 境内 | 阿州 十楽寺 |
12 | 第十四番 | 地蔵堂 | 吉田 | 吉田墓地 | 阿州 常楽寺 |
13 | 第十一番 | 薬師堂 | 吉田 | 集会場 | 阿州 藤井寺 |
14 | 第四十八番 | 安養寺 (跡地) | 小文間 | 不動堂 | 予州 西林寺 |
15 | 第五十四番 | 大聖寺 (廃寺) | 小文間 | 麻疹 不動堂 | 予州 延命寺 |
16 | 第十七番 | 成龍院 (廃寺) | 小文間 | 薬師堂 | 阿州 井戸寺 |
17 | 第十九番 | 地蔵堂 | 小文間 | 明星院 | 阿州 立江寺 |
18 | 第六十三番 | 福永寺 | 小文間 | 福永寺 境内 | 予州 吉祥寺 |
19 | 第十五番 | 弥陀堂 | 小文間 | ぽっくり 榎大師 | 阿州 国分寺 |
20 | 第六十六番 | 東谷寺 | 小文間 | 東谷寺 境内 | 讃州 雲辺寺 |
21 | 第七十二番 | 大日堂 | 小文間 | 大日坂 | 讃州曼 荼羅寺 |
22 | 第十八番 | 弥陀堂 | 小文間 | 新田 集会場 | 阿州 恩山寺 |
23 | 第六十四番 | 西光院 (廃寺) | 小文間 | 白山神社 | 予州 前神寺 |
24 | 第十六番 | 観音堂 | 小文間 | 白山神社 | 阿州 観音寺 |
25 | 第五十八番 | 観音堂 | 布佐都 | 元布佐 河岸 | 予州 仙遊寺 |
26 | 第廿四番 | 延命寺 | 布佐 | 成田街 道沿い | 土州東寺 |
27 | 第三十七番 | 勝蔵院 | 布佐 | 布佐和田 | 土州五社 |
28 | 第廿一番 | 竹内神社 | 布佐 | 勝蔵院 境内 | 阿州 大龍寺 |
29 | 第四十一番 | 稲荷神社 | 布佐新田 | 布佐新田 | 予州 龍光寺 |
30 | 第八十九番 | 仙元神社 | 布佐 | 浅間新田 | 予州笹 山権現 |
31 | 第八十一番 | 長福寺 (空寺) | 沖田 | 成田街 道沿い | 予州 白峯寺 |
32 | 第七十七番 | 弁財天 | 沖田 | 葺不合 神社 | 讃州 道隆寺 |
33 | 第廿五番 | 地蔵院 (空寺) | 新木 | 成田街 道沿い | 土州 津寺 |
34 | 第廿九番 | 観音院 | 日秀 | 日秀観 音境内 | 土州 国分寺 |
35 | 第六十番 | 照明院 (廃寺) | 柴原 | 中峠 | 予州 横峯寺 |
36 | 第七十六番 | 龍泉寺 | 柴原 | 中峠 | 讃州 金倉寺 |
37 | 第廿八番 | 宝照院 (空寺) | 柴原 | 不動堂 | 土州 大日寺 |
38 | 第五十一番 | 法岩院 田寺 | 柴原 | 中峠 | 予州 石手寺 |
39 | 第廿二番 | 白泉寺 (空寺) | 岡発戸 | 都部 | 阿州 平等寺 |
40 | 第七十三番 | 正泉寺 | 都部 | 都部 | 讃州 出釈迦寺 |
41 | 第三十六番 | 不動堂 | 瀧 | 岡発戸 | 土州 青龍寺 |
42 | 第七十四番 | 西音寺 (空寺) | 下ヶ戸 | 八幡神社 | 讃州 甲山寺 |
43 | 第六十五番 | 無量院 | 青山 | 青山 | 予州 三角寺 |
44 | 第七十五番 | 東源寺 | 柴崎 | 中回向所 | 讃州 善通寺 |
45 | 第五十五番 | 円福寺 | 柴崎 | 柴崎 神社隣 | 予州 大積山 |
46 | 第廿七番 | 最勝院 | 高野山 | 成田街 道沿い | 土州 神峯寺 |
47 | 第三十八番 | 子の神 | 我孫子 | 子の神 大黒天 | 土州 蹉蛇山 |
48 | 第四十二番 | 大光寺 | 我孫子 | 我孫子市緑 | 予州 仏木寺 |
49 | 第四十三番 | 延寿院 | 我孫子 | 子の神 大黒天 | 予州 明石寺 |
50 | 第五十九番 | 興陽寺 | 我孫子 | 白山 | 予州 国分寺 |
51 | 第八十四番 | 宝蔵寺 | 久寺家 | 宝蔵寺 境内 | 讃州 屋嶋寺 |
52 | 第八十五番 | 円性寺 | 土谷津 | 円性寺 境内 | 讃州 八栗寺 |
53 | 第廿六番 | 南龍寺 | 富勢 | 諏訪街 道沿い | 土州 西寺 |
54 | 第六十七番 | 薬師堂 | 布施 | 布施 弁天下 | 讃州小 松尾寺 |
55 | 第六十八番 | 東海寺 | 布施 | 布施弁天 | 讃州 琴弾山 |
56 | 第四十五番 | 永蔵寺 (廃寺) | 戸頭 | 薬師堂 | 予州 岩屋寺 |
57 | 第三十四番 | 薬師堂 | 戸頭 | 永蔵寺 跡内 | 土州 種間寺 |
58 | 第七十九番 | 龍禅寺 | 米野井 | 龍禅寺 境内 | 讃州 金花山 |
59 | 第四十七番 | 三仏堂 | 米野井 | 龍禅寺 境内 | 予州 八坂寺 |
60 | 第四十九番 | 高源寺 | 高井 | 下高井 | 予州 浄土寺 |
61 | 第五十番 | 東光寺 (廃寺) | 高井 | 集会場 | 予州瑠 璃光院 |
62 | 第五十二番 | 明音寺 (廃寺) | 高井 | 妙見神社 | 予州 太山寺 |
63 | 第七十八番 | 弥陀堂 | 山の坊 | ゆめみ野 | 讃州 道場寺 |
64 | 第三十三番 | 長福寺 (空寺) | 野々井 | ぽっくり 観音 | 土州 高福寺 |
65 | 第六十二番 | 白山神社 | 野々井 | 予州一 ノ宮寺 | |
66 | 第四十四番 | 西光寺 | 野々井 | 西光寺 境内 | 予州 菅生山 |
67 | 第三十五番 | 薬師堂 | 稲 | 個人所有 | 土州 清瀧寺 |
68 | 第四十番 | 薬王寺 (廃寺) | 稲 | 稲集会場 | 予州観 自在寺 |
69 | 第三十九番 | 薬師堂 | 稲 | 個人所有 | 土州 赤木山 |
70 | 第八十六番 | 観音堂 | 稲 | 稲観音 | 讃州 志度寺 |
71 | 第五十六番 | 地蔵堂 | 稲 | 個人所有 | 予州 泰山寺 |
72 | 第五十七番 | 弥陀堂 (無) | 稲 | 個人所有 | 予州 八幡寺 |
73 | 第八十番 | 毘沙門堂 | 稲 | 個人所有 | 讃州 国分寺 |
74 | 第六十九番 | 観音堂 | 寺田 | 法海寺跡 | 讃州 観音寺 |
75 | 第七十一番 | 東漸寺 | 寺田 | 本郷 | 讃州 弥谷寺 |
76 | 第七十番 | 永福寺 (廃寺) | 寺田 | 東漸寺 境内 | 讃州 本山寺 |
77 | 第五十三番 | 弥陀堂 | 野中 | 弥陀堂 跡地 | 予州 円明寺 |
78 | 第八十三番 | 諏訪宮 | 野中 | 松昌寺 跡地 | 讃州 一ノ宮 |
79 | 第八十二番 | 弘経寺 | 大鹿 | 白山 | 讃州 根来寺 |
80 | 第三十番 | 一乗院 (廃寺) | 井野 | 井野台 | 土州 一ノ宮 |
81 | 第十二番 | 虚空蔵堂 | 井野 | 井野台 | 阿州 焼山寺 |
82 | 第廿三番 | 薬師堂 | 井野 | 北坪 集会場 | 阿州 薬王寺 |
83 | 第三十二番 | 観音堂 | 井野 | 土州禅 師峰寺 | |
84 | 第八番 | 観音堂 | 井野 | 城山観音 | 阿州 熊谷寺 |
85 | 第四十六番 | 弥陀堂 | 井野 | サクラ 公園 | 予州浄 瑠璃寺 |
86 | 第六十一番 | 大日堂 | 井野 | 台宿 | 予州 香苑寺 |
87 | 第三十一番 | 天満宮 | 井野 | 井野 天満社 | 土州 五台山 |
88 | 第八十七番 | 地蔵堂 | 大鹿愛宕 | 愛宕神社 | 讃州 長尾寺 |
89 | 第八十八番 | 長禅寺 | 取手 | 長禅寺 境内 | 讃州 大窪寺 |
- | 光音堂 | 金刀 比羅社 | 白山 | 居住地 | 讃州金 刀比羅 宮 |
観覚光音禅師の勧進:相州道了大権現、遠州秋葉大権現、讃州金毘羅大権現の三社の碑が金刀比羅神社境内にあります
新四国相馬霊場88ヶ所を巡る会シンボルマーク | |
![]() |
相馬霊場を開基した観覚光音禅師をイラスト化し、巡る会のシンボルとしています。 |
中食(ちゅうはん) | |
![]() |
稲の民家でお接待を受け、中食(昼食)を頂く銚子から来られたお遍路さん達。 |
国指定重要文化財の三仏堂 | |
![]() |
取手市にある唯一の国重文建築物三仏堂、釈迦、阿弥陀、弥勒の三仏像が祀られています。 |
長禅寺の参道階段飾り | |
![]() |
取手のお雛様では県外にまで知られる様になりました階段飾り、二月第4日曜日に相馬霊場巡りでご案内しております。 |
稲地区第39番大師さんの御膳 | |
![]() |
毎年2月21日は取手も「大師の日」です、第39番ではお大師様に膳が供えられます。 |
昔の日秀観音寺、成田街道沿い | |
![]() |
日秀観音寺には成田山新勝寺と反対方向を向いた「案内地蔵」が通る人や車を見ています、九曜紋のお寺です。 |
「懸所」とは浄土宗派による起源で専用語
