新四国相馬霊場第33番






野の井のぽっくり観音、長福寺
青野山不動院長福寺、延喜二年(902)
守谷の西林寺末寺として創建
永禄二年(1559)承応上人によって開山、
江戸時代は幕府御朱印寺であった様だ。
御本尊、阿弥陀如来
移し寺、高知県高福山雪渓寺
御詠歌、旅の道うえしも今は高福寺
            のちの楽しみ有明の月


 境内には花壇があり、各お堂も掃除がゆきとどき庫裏のような建物があるが無住のようだ、近くの人の話では「坊さんではないが、お盆と暮に来るが普段はいない、軽自動車は町内で使うため」と伺った。
 鐘楼の鐘は安永五年(1775)のもので、戦時中供出されたが鉄として溶かされる直前に終戦を迎えた。 その後、山梨の善住寺に渡ったが「元の寺へ帰そう」となり長福寺に戻ってきた鐘である。

 守谷の西林寺64世の義鳳上人、俳号「鶴老(かくおう)」は、俳人小林一茶の師匠でした、義鳳は晩年隠居として余生を送った居であります、天保四年三月十三日没、お墓は西林寺にある。

 「野の渡」明治13年の地図には利根川河原まで一直線の道筋が記載されていて渡し場に出る「野の渡(ののわたし)」である、対岸は布施村土谷津に渡っている。
 「筆子の碑」不動堂の脇にある。この寺小屋の筆子は守谷西林寺の若僧のようで教え子にしたわれ、千葉県柏や守谷、藤代の広範囲から集まったそうである、寺小屋は「野の渡」の近くにあったそうです。

 朱塗りの「ぽっくり観音堂」は、相馬霊場巡りでも人気が集まる、参加者に60~70代が多いためで「あの世へはポックリ行かせて」という願いからである。

   『 ぽっくり観音由来 』 の碑文は以下の通りです。

  観音様の御本体は大慈大悲の真理であり、
 そのおはらたきは大慈大悲の実践であります。
  皆さんが観音さまを信心いたしますと
 お慈悲をもって皆さんをお守りくださり、
 災難をまぬがれ、もろもろの願いがかない、
 そのお徳を頂いて 皆さんに慈悲(徹底した親切)の生活が展開いたします。
  その時の皆さんの姿はそのまま観音さまの化身応身であります。
  この功徳によって安心の清らかな蓮台に乗り
 観音浄土に常住の御利益を得ることができます。

   念彼観音力            合掌

               天台沙門   秀光議
【注釈】阿弥陀経の「おはたらき」は成行での自壊、「おはらたき」は自壊からの復帰。

 相馬霊場には取手市小文間(おもんま)第15番に「ぽっくり榎大師」という大師堂があり「ぽっくりさま」と呼ばれているポックリもあります。

 次の44番へは、墓地中の奥の「ぼけ除け堂」の手前右の石段を下り、狭い十字路を左に行き竹林がきれると右前方に西光寺が見えます。





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