新四国相馬霊場第34番と第45番札所






        永蔵寺址の境内、薬師堂。
御本尊、薬師瑠璃光如来
移し寺、高知県本尾山種間寺
ご詠歌、世の中にまける五穀のたねま寺
 深き如来の大悲なりけり















 この薬師堂は、守谷市乙子から移したものです、天慶四年(941)慈念僧上の開山で薬師如来は、相馬小次郎将門の守護神と伝えられています。
 明治初期迄、守谷も取手も相馬郡でした。
 堂の建て方が茨城県や千葉県ではあまり見かけない様式で、向拝の中央には階段がなく、左右に分かれています。
しだれ桜で知られる守谷市の古刹である西林寺が同じ様式で、中央に階段がありません。

 水戸街道の脇往還
 千葉県側の流山から柏の布施弁天まで街道があり、布施弁天からは七里ヶ渡しで舟で戸頭へ渡り守谷、谷田部、土浦下高津で水戸街道に合流します。
 水戸街道の脇道としての役割を果たす裏の街道でした。ただし幕府が公認した街道ではありませんでした。
 又、新撰組の土方歳三が北へ下ったルートは、戸頭-下妻-下館-白石-会津と鬼怒川沿いの道(旧R294)でした。

 旧戸頭小学校が戸頭神社の北100mも歩かない処にありました、現在はマンションになり学校の面影は無く碑だけが残っています。

 





   永蔵寺跡の境内、戸頭中学前の信号を渡り200m位。
永蔵寺(廃寺)、
御本尊、阿弥陀如来
移し寺、愛媛県海岸山岩屋寺
ご詠歌、大聖のいのる力のげに岩屋
 石のなかにも極楽ぞある








 光燿山等覚院永蔵寺は、応和年中(961~964)慈念僧正によって開山。
 創立時は守谷の高野(こうや)にありました。
明治の頃まで戸頭は守谷郷に属していたので他国からの引越しではないようです。
48ヶ寺もの門末と20石の朱印地を有した大寺院で檀家は無い為、明治初めの廃仏毀釈令により、衰退し廃寺となりました。

 「七里ヶ渡し」の船着き場として、戸頭という地名は古くからありました。
 旧地名に「御所車」とか「西御門」など多くの城郭に使われる地名がありました、大きな御殿でもあったのでしょうか。
 お遍路さんの宿坊が5~6件あり毎晩のように騒がしく賑わっていたのがこの寺のまわりでした。
 銀杏の大木はどのような歴史を見てきたのか教えてくれるといいですね。
 




 

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