相馬霊場第15,18,66,72番

 新四国相馬霊場第15番





  弥陀堂、阿弥陀の阿を省略した堂名
御本尊、阿弥陀如来
移し寺、徳島県薬王山国分寺
ご詠歌、薄く濃くわけわけ色を染めぬれば
    流転生死の秋のもみじ葉
 








 
 お堂写真左側の赤い建物が十五番の大師堂です。お堂の後ろの墓地内に「一色宮内」と書かれた木柱と。何が書かれているのか読めない石柱が立っています。城主一色宮内の墓と地元ではいわれている。
 一色宮内と大鹿城主側の連合軍との戦いを
『雁金山の合戦』でご紹介します。
 大師堂の隣に朱塗りの「ぽっくり榎大師堂」(写真左奥の小さなお堂)があり「ぽっくりさま」とも呼ばれている、ぽっくり大師やぽっくり観音は全国各地にあるようだが「榎」(えのき、えんの木、縁結の木)が付くのは珍しい。
 「ぽっくり」というと相馬霊場巡りでも人気が集まる、参加者に60~70代が多いためで「あの世へはポックリ行かせて」という願いからだろうとか思う。相馬霊場地域内には、野の井の第33番にも「ぽっくり観音」があります。


ICON 参加者配布資料




地図画面に戻る
場合は、ここから
 ICON
スマホ使用時は
"<"で前頁に戻る





 新四国相馬霊場第18番





  弥陀堂、阿弥陀堂を略した言い方です
御本尊、阿弥陀如来
移し寺、徳島県母養山恩山寺
ご詠歌、子をうめるその父母の恩山寺
    訪らひがたきことはあらじな
 






 
  天気が良いと後ろの畑の梅林越しに筑波山が見え広大な新田風景のパノラマが広がります、「相馬二万石」といわれ、江戸時代の食料源でありました、
 この穀倉地帯は、利根川の東遷を命じた徳川家康によって、伊奈半十郎忠治が小貝川を堰で止め其の用水を利用して出来たものです。取手が潤った源がここに展開しています。
 
小文間の文巻川



ICON 参加者配布資料




地図画面に戻る
場合は、ここから
 ICON
スマホ使用時は
"<"で前頁に戻る





 新四国相馬霊場第66番






  明香山観音院東谷寺
御本尊、大日如来
移し寺、徳島県巨濠山雲辺寺
ご詠歌、はるばると雲のほとりの寺にきて
    つきひをいまはふもとにぞみる
 
   







 
 一色家の菩提寺で鬼門除けの寺であったようです。白山神社にあった西光院の本尊を管理しています。また、第六十六番、十五番、七十二番、十八番、十六番、六十四番の御朱印寺です。
 小文間小学校の正門の近くに「首無し地蔵尊」があります。雁金山の戦いで敗れた一色家の残党の斬首において地蔵を祀ったところ、この地蔵は時代を経ても呪いが解けずに居たそうで、ある日地蔵の首を切ったところ人傑の血が迸り、葬られて居ない魂の供養の為に祭事を行い鬼門に弔いを移したとされています。
 近くの宗四朗坂の途中に「首欠け地蔵」があります、一色家残党の徒刑場跡に首欠け地蔵を後世祀ったのか?宗四朗坂を更に下っていくと利根の河原へ出ます。大昔ここに五条街という都市があったとか?
 更に、河原には「神出しの渡し」がありました。 取手市吉田で発見された古文書には、相馬霊場のお遍路さんは、戸田井から渡し舟で文巻川を下り我孫子側の古戸または江蔵地までの「神出しの渡し」利用して布佐の都の札所へ巡拝と記録が残されています。
 東谷寺下の河原からの古戸や江蔵地の渡し場などで「お~ぃ船頭さん、舟を出しておくれ」と、小文間の「麻疹不動」や「ぽっくり榎大師」へ親子で願掛け参りに相馬霊場を巡る様子が目に浮かびます。


ICON 参加者配布資料




地図画面に戻る
場合は、ここから
 ICON
スマホ使用時は
"<"で前頁に戻る





 新四国相馬霊場第72番






御本尊、大日如来
大日堂、春日神社境内内
移し寺、香川県我拝師山曼荼羅寺
ご詠歌、わずかにも曼荼羅拝む人はただ
    再びみたびかえらざらまし








  
 大日堂は、明治32年学校として六年間利用されましたが、日露戦争凱旋式の煙火で焼けたという、眉唾伝承。
 大師堂の透かし彫りの造りは素晴らしい彫刻です。春日神社は大日坂の通りの向かい側にあります。
 百庚申、境内には数十基の庚申塔が並んでいます、最も古いのは元禄十六年(1703)が現存します。現在庚申は行われていないようです。
 千葉県印西の木下(きおろし)街道沿いには、庚申石碑が赤く塗られ「庚申を行いました」と知らせていました。


ICON 参加者配布資料




地図画面に戻る
場合は、ここから
 ICON
スマホ使用時は
"<"で前頁に戻る