相馬霊場26,67,68,84,85番

 新四国相馬霊場第26番






  浄土宗竹林山南龍寺
御本尊、阿弥陀如来三尊
移し寺、高知県龍頭山金剛頂寺
ご詠歌、往生に望みをかくる極楽は
    月のかたむく西寺の空
 







 
 江戸時代末になると学問に対する関心が高まり、寺小屋が各地で開かれ明治五年学制が公布され翌年にはここ南竜寺を仮校舎として天眞学校が開設されました。現在の富勢小学校の前身で、寺小屋は学校へと移り変わりました。

 薬医門は桃山時代(1573~1600)頃からの門構えです。本柱と控柱それぞれ2本を立て、本柱の梁(はり)が中心線上から前方にずれています。梁の上に束(つか)をたてて切妻屋根を乗せた特色のある山門です。
 薬医門は診療や医療を行う屋敷に造られ、脇門は患者のために常に開かれていました。また、薬医とは「矢を食い止める」意味を合わせ持ち、診療所内の患者を守るので攻撃してはいけないということなのか?
 水戸城(現水戸二高)の城門で使われ、最大の薬医門として保存し利用されています。更に詳しい資料は下記をタップしてください



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 新四国相馬霊場第67番






布施の薬師堂
御本尊、薬師如来
堂脇に文化4年(1807)の霊場石柱があります
移し寺、香川県小松尾山大興寺
御詠歌、うえおきし小松尾寺を眺むれば
    のりのおしえの風ぞふきぬる
 












 
 石塔に「文化四年卯月建」と銘が刻まれています。他三棟は薬師、大日不動堂で後年、荒屋敷の寺山(ふるさと会館)から移されて来たそうです。
 句碑「賽銭を篩いにかけて日照草 富貴子」、読み、さいせんを ふるいにかけて ひでりそう、現代訳すと、賽銭泥棒が賽銭箱の引出しの鍵を壊して篩いにかけたら米粒が・・
 お大師さまには、お供米で祈願する習わしがあり、賽銭箱に銭だけとは限らないのです「お米は雀のためにね、盗人さん・・」
 境内には、桜と同時期に「白いたんぽぽ」が群生して咲きます。花名「白花たんぽぽ」といい純日本種の「たんぽぽ」です。西洋種に負け絶滅しそうです、だが最近は種子を買えるそうです。
 

 

 七里ヶ渡し場跡と鈴掛の大樹
   柏市指定文化財

 

 取手市側の戸頭との間に「七里が渡し」がありました、取手に渡る最も古く、年代はあきらかではないのですが平安時代以前からの渡しです。
 新大利根橋の脇に鈴掛(プラタナス)の大樹の袂に柏市の案内板があります。七里ヶ渡しは水戸街道の脇往還としての役割を果たしていました。 又、諏訪道とも言われ、流山から旧日光街道を柏市豊四季へ宿連寺を経て布施弁天~戸頭~小張~谷田部~土浦で水戸街道へ合流した水戸街道より古い街道でした。
 俳人の小林一茶が守谷の西林寺の旅では頻繁に使われた道筋です。さらに土方歳三が会津への旅に七里ヶ渡しを渡り、鬼怒川沿い(旧R294)に北上したようです。



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 新四国相馬霊場第68番






  柏市の布施弁天、紅竜山松光院東海寺
御本尊、弁財天と聖観世音菩薩
移し寺、香川七宝山神恵(じんね)院
ご詠歌、笛の音も松吹く風も琴ひくも
    歌うも舞うも法のこえごえ
 







 
 江ノ島弁天、浅草弁天(上野不忍池)と関東三弁天の一つです。隣に「あけぼの山公園」があり大きな風車もあり四季の花が咲き憩いの広場となっています。
 また、桜の名所として関東では有名なところです。
 【布施弁財天の縁起】
 大同2年(807)香取灘という海であったこの地に紅竜が現れ島をつくりました。更に里人の夢には天女が夜な夜な現れました。天女のお告げにより島の洞窟から尊像が見つかりました。 その頃巡錫中の弘法大師はこのことを知り、像を自作し安置して開基したことを告げたといいます。里人は弘法大師に帰依して、弘仁14年(823)田畑を寄進して寺を建立しました。後に源経基によって松光院として再興されたそうです。
 【地名、布施】
 布施は、「お布施」そのものです。神仏や人に物を施しめぐむこと。布施弁天周辺の地名を「富勢(とみせ)」といいました、現在でも商店街名や学校名に富勢という名が受け継がれています。富勢は「ふせ」とも呼べます。 柏市には、手賀沼湖畔に布瀬という地名もあります、なにやら布施は布瀬が起源であるとの伝承が布瀬にあります。
 【平將門の誕生伝説】
 取手市野の井の龍禅寺には三仏堂があり、伝説では将門が祀ったという三仏があります。将門は、刃も矢も受付けない鎧のような身体であったと伝承されております。
 将門の母は、強靭な息子を望み龍禅寺へ再三訪れていたある日、西の空から紅龍が炎と共に下りてきました。驚いた母は、たちまち男児を出産しました、将門の誕生でした。 紅龍は、布施の沼から昇竜して龍禅寺へ飛来してきたのでした。紅竜山つまり布施沼の東海寺の紅龍であった訳です。しかし、将門は後の戦いで紅竜山を焼き尽くしてしまったのでした。
 他説では、将門の身体に紅竜が乗移ったという説もあります。
 【境内の様子】
 本堂は真言密教の原理により内陣と外陣を区別した構造であり、外陣の天井には狩野探舟による龍の図を、内陣の天井には本堂建設に貢献された九十八藩の大名紋章が描かれています。
 鐘楼は「からくり伊賀」と言われた、つくば市谷田部の飯塚伊賀七によるもので門柱に十二支の彫刻を配し方位を示した建造物です。
 境内は非常に広く「日本庭園」や、敷地隣には「あけぼの公園」があり、オランダ風車や四季の花々は大勢の人々で賑わっています。
 【歴史事実の訂正】
 松尾芭蕉の句と云われてきた句碑は、芭蕉の弟子宗舞の句であることが、柏市によって訂正「涼しさや 真帆にまむかう 山なれば」です。
 基角の句碑「玉はつき ひるもふけてけり 布施ごもり」は間違いないようです。
 
 

 境内の三重塔 と 小林一茶の碑
 桜で有名な「さくら山公園」の北端にある一茶の碑です。
「 米蒔くも 罪ぞよ鶏が 蹴合うぞよ 一茶 」読み:こめまくも つみぞよ鳥が けあうぞよ
 一茶の句集「株番(かぶらばん)」に次の文があります、布施東海寺に詣でたら、鶏たちがあとを追ってくる。それが不憫(ふびん)で、門前の家に寄って米一合を買い まいてやるとあちこちで仲間喧嘩を始めた。その間に鳩や雀がやってきて、心静かに米をついばむ。鶏たちがえさ場にきたら、鳩も雀もすばやく梢に逃げ去った、鳩や雀は鶏たちの喧嘩が長く続けと思っているだろう。士農工商その他の生業があるが皆このようなもの」



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 新四国相馬霊場第84番






  我孫子市久寺家真言宗豊山派明王山宝蔵寺
御本尊、延命地蔵菩薩
移し寺、香川県南面山屋島寺
ご詠歌、あずさ弓屋島の寺にもうでつつ
    いのりをかけて勇むもののふ
 









 
 観覚光音禅師は、久寺家(くじけ)の丘は香川県の屋島に似ていると言われ、八十四番を写したそうです、今ものどかな田園風景が広がっています。 宝蔵寺寺伝によると、宝蔵寺は元和三年(1617)の創建であり、元は地蔵堂でした。

相馬霊場唯一、大師堂手前の寵堂(こもりどう)

 【地名、久寺家】
 宝蔵寺は久寺家城跡の様で我孫子城主の安孫子左衛門但馬守の支城と明確ではないのですが云わっています。
 久寺家とは、平将門の家臣久寺儀元なるもの流浪し来り、民業を起したるに起因す。(富勢村誌)。更に詳しい説を紹介すと、 平将門の家臣の久寺豊後守大炊左馬之助は、現在の新取手東端に位置する大山の城主でした。将門の愛妾桔梗御前の住む朝日御殿の向い側になる処です。
 久寺豊後守には弟の丹後守がいました。二人の城主は将門の死を知ると大山城を捨てざる得なくなり逃亡もを余儀無く、兄は久寺家へ弟は柴崎に農民となって逃れました。
 豊後守は此の大地に居を構え帰農し田地を開いたのでしょう、久寺家という地名は久寺豊後守の名が基になったようで、 宝蔵寺は久寺豊後守の浄財を得て伽藍を造ったとあり、縁が深かったのでしょう。宝蔵寺書院庫裏再建落慶供養願文より
 


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 新四国相馬霊場第85番






  柏市土谷津の飛龍山円性寺
後本尊、不動明王
移し寺、香川県五剣山八栗寺
ご詠歌、ぼんのうを胸の智火にて八粟をば
    修行者ならでたれか知るべき
 
   







 
 水戸街道の脇往還沿いの一村です、旧家が残るところで円性寺も静かな境内に老桜の古木に癒されます。
 

老い桜 ハイカーきたりて 舞散らす

 【地名】谷津とは山や丘陵の入り込んだ湿地帯をいいます。土谷津には十一の谷津がありました、土の字を上下に分けると十と一になるところから土の谷津、即ち土谷津になったようです。
 境内に、俳人小林一茶と交友のあった雪月庵嘯花こと、ろうそく屋彦兵衛の句碑があります。(読み、嘯花=しょうか)
 ろうそく屋彦兵衛についての資料、
 
「いほりのちり」雪月庵嘯花

 


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