相馬霊場第22番、36番、73番、74番
新四国相馬霊場第22番
二 十 二 番 |
岡発戸の白泉寺(空寺) 御本尊、釈迦如来 移し寺、徳島県白水山平等寺 ご詠歌、平等にへだてのなきと聞く時は あら頼もしき仏とぞみる |
幡 神 社 境 内 |
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白泉寺は正泉寺七世竹厳宗嫩(そうどん)の開山で正泉寺の末寺でした。境内に待道大権現社があります、求子、安産、子育祈願の女人講によって祀られたものと言われます。 【地名】岡発戸「おかほっと」、岡の地形が「ほと」女性陰部に似ている、発戸は後世、男女を問わず使われた隠語です。火種の元で鍛冶屋をさすという意味もあります。 地元では「おかぼっと」「おかぽっと」とも言うそうです。また、「岡程戸」と記した時期もあったそうです。 |
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新四国相馬霊場第36番
三 十 六 番 |
御本尊、不動尊像 移し寺、高知県独鈷山青龍寺 ご詠歌、わずかなる泉にすめる青龍は 仏法守護のちかいとぞ聞く | ||
発 戸 の 滝 前 不 動 | ![]() |
寛平時代(889~897)平高望王が空海作の不動尊像を祀ったという。1600年頃の創建、当時は大日照りでも涸れないほどの水量で名水であったそうです。我孫子ゴルフにより渇水 たきまえ不動は、志賀直哉の小説「矢島柳堂」に登場しています、本の確認が出来ないため不問としてください。 石段の途中、滝下に松尾芭蕉の句碑があります。芭蕉は亡くなる寸前に、付き添いの「支考」へ、嵯峨で吟じた「大井川浪に塵なし夏の月」の句を改案したい旨を告げました。 芭蕉生涯の最終句となった句は、自ら改竄(かいざん)されたものでした。 「清滝や 波に散り込む 青松葉」ばせを 我孫子には明治の頃文化人が多く住み、埼玉県浦和とともに「北の鎌倉」と言われています。 |
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新四国相馬霊場第73番
七 十 三 番 |
我孫子市湖北台、都部の大竜山正泉寺 御本尊、延命地蔵尊 移し寺、香川県我拝師山出釈迦寺 (がびしざんしゅつしゃかじ) ご詠歌、迷いぬる六道衆生すくわんと 尊き山にいづる釈迦寺 |
人 成 仏 の 寺 |
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上掛軸図:女人成仏血盆教出現の図 1263年北条時頼の娘桐姫(法性尼)の創建と伝えられる正泉寺は、女人成仏(にょにんじょうぶつ)の霊場として有名でした。女人成仏血盆経出現図等の絵画3点と血盆経縁起・紺紙金泥血盆経をはじめとして版木類一式を含む資料は近世民間信仰を明らかにするものです。 平成十年三月千葉県指定文化財(有形民俗文化財) 桐姫は十六歳の頃、法性尼となってここに法性寺を創建しましたが病に倒れ世を去りました。百年後、村の一娘が貴婦人の姿となって、腰から下を紅のように染め苦しみ、 和尚に「私は桐姫法性尼です、血盆地獄に墜ち苦悩が絶えない。どうか法性寺にある延命地蔵菩薩にお祈りをして欲しい」と言って和尚に頼みました、 和尚は直ちにお祈りをあげるとその夜、「直ぐに手賀沼へ行け」とお告げがあり和尚は翌早朝、沼へ行きました、すると沼底から白蓮が一本現れその中に経文が乗っていたのです。 和尚は経文を持ち帰り、娘の枕元で読むと「私は法性尼と共に成仏いたします」と言って息を絶えたが、程なく蘇生して普通の娘に戻ったといいます。 ここに「血盆経」が出現し女人成仏が可能となり、この頃大騒ぎとなり時の将軍義光は「女人成仏血盆経出現道場」の額を贈ったといいます、又手賀沼の清い泉から出現したことから「正泉寺」と改められたそうです。 この後、「延命地蔵尊」と「血盆経」は多くの婦人信仰者を持ちましたが、明治初期の廃仏棄釈の後、血盆経は「女性卑下の教えであり男女同権の思想に相応しくない」という反対派によって、布教を禁止されました。 当時は女性に最も支持されていたのに、半強制的な反対派の意見は屈折した思考の元に、女性達の意見を無視した宗教弾圧としか思えません。 ![]() こじんまりとした風情のあるお寺です。光音禅師と共に四国の出釈迦寺から土を運び相馬霊場73番を開基した と記された石柱があります。 【地名の都部(いちぶ)】 平安時代の京都は「都として一番目」から、都は一と共通する意味がありました、一番部落が都部落に変化の説。 もう一説は、経典を唱えて、手賀沼の水面の一部分から水が噴き出したところによる「一部」が「都部」へ変化した由来もあります。 |
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新四国相馬霊場第74番
七 十 四 番 |
真言宗永光山西音寺(空寺) 御本尊、薬師如来 移し寺、香川県医王山甲山寺(こうやまじ) ご詠歌、十二神味方にもてる戦には 己と心かぶと山かな | ||
ヶ 戸 の 西 音 寺 | ![]() |
寛永十二年(1635)の碑があり碑文には、江戸初期に修行僧が堂庵を営む、とあります。 NEC日本電気の角地にある池との関係です、利根川の氾濫で鍛冶池(かじいけ)は、県の払下げ池であったので日本電気(NEC)に譲渡し、一部を本堂再建に充当したといいます。 鍛冶池は現在、夏には色とりどりの睡蓮が咲き誇り、レストラン「かじ池亭」が管理しております。かじ池亭は、国道6号沿いにあった「レストランかあちゃん」でした。 西音寺本堂の奥には八幡神社があり誉田別命と菅原道真が祀られています。 【地名の下ヶ戸】さげと、と読みます。酒豪の上戸(うわばみ)に対して飲めない者を下戸(げこ)といいます、下ヶ戸の地名は、この上下差を部落毎の人口差によって決められ、納税額に差をつけたようです。 |
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