新四国相馬霊場第77番





我孫子市新木の葺不合神社
御祭神 鵜茅葺不合(うがやふきあえず)尊
御本尊 聖観世音菩薩
移し寺、香川県桑多山道隆寺
ご詠歌、ねがいをば仏道隆に入りはてて
  菩提の月を見まくほしさに
七十七番大師堂と道標 国道356成田街道沿いの葺不合神社の鳥居
厳島神社の移し本殿 壁面の彫刻は必見の価値がある、その一部

 拝殿は弁天堂として平安時代の文治二年(1186)創建。
 明治時代の廃仏棄釈寺社統合により葺不合神社とされた。
 地元では沖田(下新木)の弁天様といわれている。

 葺不合とは、日子波激武(ひこなぎさたけ)鵜茅葺不合尊で 神武天皇の父君に当る神で現在の宮崎県日南市にある鵜戸神社には海食による洞窟の中に卑弥呼の産所があるが、産屋(うぶや)すなわち鵜茅草(うがや)とは産所とされている。
 豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)は私を産む際に鵜の羽で産屋の屋根を葺こうとしたのだが、まだ全て葺き終わらないうちに私を産んでしまった。
 それで「うがやふきあえずのみこと」…つまり鵜の羽を葺き終わらないうちに生まれた御子…と名付けられた。

 沖田の弁天さまが祀られている本殿は閉められているために弁財天は見ることが出来ない。
 三つの壁面には見事な彫刻が施されていて必見の価値がある、「やまたの大蛇」「天の岩戸」「神武東征」「三韓征伐」」など。

 明治以降のこの神社の経緯は、明治4年の太政官(だじょうかん)布告以降、様子が変わる。
 明治13年の記録では竹内無格社(むかくしゃ)厳島神社と記されていた、無格社とは村社でも郷社等とも認められていない神社。
 明治39年の神社合祀令(ごうしれい)により三峰神社他と共に合祀された。
 昭和21年、敗戦で太政官布告の廃止により現在は、地元の氏子中によって守られている。中峠の天照神社の神主が兼務しています。
 平成15年の改修工事で屋根下から「明和二年(1765)の墨書きが発見された。
 現在に残る拝殿は、既に250年近く経過している事になり、相馬霊場開基時期に重さなる、さざえ堂改築が宝暦13年(1763)である。
 拝殿内の右側に弁才天は移され、拝殿の中央に格子戸を設け本殿が見えるように改修されている。

 七十七番札所の後ろの山林に「五の神」と呼ぶ小社があります、
 五つの神様が祭られ「お日様」と地元では呼ばれている、
「湯殿山大権現」「八幡宮」「稲荷大明神」「天満天神宮」「青麻(あおそ)権現」です

 ここの台地には新木城があったといわれる、葺不合神社は、その一角とされていて「七ッ井戸」の跡が以前確認されています。
 江戸時代の国学者塙保己一による「群書類従、家系部」によれば「下総国新木村住人に相馬蔵人左あり」とあり相馬家の城がありました。
 後に荒木三河守胤重が入城し、更に家臣の田口内蔵之助に譲り城主となりました。共に取手の「雁金山の合戦」に登場する武将です。
 新木城は、本殿から東側100m位迄の畑の中に本城があったと思われるのですが痕跡は失われています。
   (青麻権現の地図内の「新木」という文字の辺りです)

 現在の新木小学校の地に新木遺跡があり縄文時代から平安時代の古墳が出土、住居跡も発見されています。




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←左、説明の石碑 と 大師堂、右→
大師堂の右脇には相馬霊場の大師道石柱がある、
又相馬霊場との関連を説明した文は汚れて判読できない。








 田口氏個人による四国巡り参拝記念に立てられたお堂です
 「青麻大権現」は「四国霊場七十三番奥の院捨身ヶ嶽禅定の写し」とあり大師堂が祀られている、棟札によると「中気除け青麻大権現」として信仰されていた。
 青麻(あおそ)神社の総本社は宮城県仙台市の「県民の森」の先にある。
 「三度詣でれば生涯、中気(ちゅうき)の難よりのがれる」と言われている。
 「中気」とは現在の脳卒中、脳梗塞などの急に訪れる脳の病いを総称して言った。

「四国霊場七十三番奥の院捨身ヶ嶽禅定の写し」について
 四国霊場には四十八の奥の院がありますが特にこの七十三番奥の院は弘法大師にとっては重要な意味があります。
 弘法大師が七歳のときに「衆生を救いたい、その力がなければこの身は諸仏に捧げます」と断崖絶壁の頂きより身を投じられたが天より天女が舞い降り弘法大師を抱きとめ「一生成仏」とお示しになられた所である。





 

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