相馬霊場25番,29番,77番,81番
新四国相馬霊場第25番
二 十 五 番 |
古戸の寿栄山地蔵院(廃寺)、開基不明。 御本尊、延命地蔵菩薩、他に千体地蔵 移し寺、高知県宝珠山津照寺(しんしょうじ) ご詠歌、法の船入るか出るかこの津寺 迷うわが身をのせてたまえや |
新 木 青 年 館 |
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地蔵堂入口には石の標柱が二本建ち片方に地蔵院、一方に上新木青年館と刻まれ、その脇に消防火の見櫓がある。 開基は不明だが貞享三年(じょうきょう、1686)舟形向背大日像石造の墓碑があり、今は無き本堂の存在が伺える。イチョウの大樹が見事に高く庭をおおっている、 地蔵院は古くからあったが、昭和四十四年に腐朽のため取りこわされ、その跡に青年館が建ち、その後昭和五十七年に新堂舎が落慶したと聞いている。 境内の地蔵堂には千体地蔵が奉納されている。夏は地域の納涼盆踊り会場となり広場は賑わう。古い庚申塔や石造物が境内の一遇にたくさん建ち並んでいる。 |
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新四国相馬霊場第29番
二 十 九 番 |
日秀観音 慈愍山観音堂(じびんざんかんのんどう) 御本尊、釈迦如来、古くは聖観世音菩薩 移し寺、高知県摩尼山国分寺 ご詠歌 國を分け宝を積みて建つ寺の 末の世までの利益のこせり | ||
秀 観 音 | ![]() |
九曜紋が目立つように、平将門の守り本尊でした行基作の聖観世音菩薩を安置し、茨城県守谷市西林寺の徳道和尚を開祖として、将門神社の地へ大悲山和泉寺として開基しました。 後に観音寺として現在地へ移転しました。 境内には光音堂があり観覚光音禅師の座像があります。 【首曲がり地蔵】 観音堂の前の地蔵尊は首を左に傾けています。平将門を敬愛する日秀の村人が成田不動尊を嫌って故意に曲げたそうです。 日秀には将門神社や将門井戸と将門を祀る所が多くあります。又、日秀西遺跡は弥生時代からの住居跡群が1978年に湖北高校の敷地内で見つかっています。 【地名】「日秀(ひびり)」とは、「日の出」が「日秀」に変化した地名なのだそうです。 |
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新四国相馬霊場第77番
七 十 七 番 |
我孫子市新木の葺不合神社 御祭神 鵜茅葺不合(うがやふきあえず)尊 御本尊 聖観世音菩薩 移し寺、香川県桑多山道隆寺 ご詠歌、ねがいをば仏道隆に入りはてて 菩提の月を見まくほしさに |
田 の 弁 天 様 |
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![]() 葺不合とは、日子波激武(ひこなぎさたけ)鵜茅葺不合尊で 神武天皇の父君に当る神で現在の宮崎県日南市にある鵜戸神社には海食による洞窟の中に卑弥呼の産所があるが、産屋(うぶや)すなわち鵜茅草(うがや)とは産所とされている。 豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)は私を産む際に鵜の羽で産屋の屋根を葺こうとしたのだが、まだ全て葺き終わらないうちに私を産んでしまった。それで「うがやふきあえずのみこと」…つまり鵜の羽を葺き終わらないうちに生まれた御子…と名付けられた。 沖田の弁天さまが祀られている本殿は閉められているために弁財天は見ることが出来ない。胴廻りの三つの壁面には見事な彫刻が施されていて必見の価値がある、「やまたの大蛇」「天の岩戸」「神武東征」「三韓征伐」」など。 明治以降のこの神社の経緯は、明治4年の太政官(だじょうかん)布告以降、様子が変わる。 明治13年の記録では竹内無格社(むかくしゃ)厳島神社と記されていた、無格社とは村社でも郷社等とも認められていない神社。 明治39年の神社合祀令(ごうしれい)により三峰神社他と共に合祀された。 昭和21年、敗戦で太政官布告の廃止により現在は、地元の氏子中によって守られている。中峠の天照神社の神主が兼務しています。 平成15年の改修工事で屋根下から「明和二年(1765)の墨書きが発見された。 現在に残る拝殿は、既に250年近く経過している事になり、相馬霊場開基時期に重さなる、さざえ堂改築が宝暦13年(1763)である。拝殿内の右側に弁才天は移され、拝殿の中央に格子戸を設け本殿が見えるように改修されている。 ![]() また、ここの台地には『新木城』があったといわれる、葺不合神社は、その一角とされていて「七ッ井戸」の跡が以前確認されています。 江戸時代の国学者塙保己一による「群書類従、家系部」によれば「下総国新木村住人に相馬蔵人左あり」とあり相馬家の城がありました。後に荒木三河守胤重が入城し、更に家臣の田口内蔵之助に譲り城主となりました。共に取手の「雁金山の合戦」に登場する武将です。 新木城は、本殿から東側100m位迄の畑の中に本城があったと思われるのですが痕跡は失われています。 現在の新木小学校の地に新木遺跡があり縄文時代から平安時代の古墳が出土、住居跡も発見されています。 新木在住の個人の大師霊場 我孫子市障害者福祉センター前 ![]() ←左、説明の石碑 と 大師堂、右→ 大師堂の右脇には相馬霊場の大師道石柱がある、 又相馬霊場との関連を説明した文は汚れて判読できない。 田口氏個人による四国巡り参拝記念に立てられたお堂です。「四国霊場七十三番奥の院捨身ヶ嶽禅定の写し」とあり大師堂が祀られている、棟札によると「中気除け青麻(あおそ)大権現」として信仰されていた。 青麻大権現と弘法大師は関連しません、では青麻大権現とは? 青麻神社の総本社は宮城県仙台市の「県民の森」の先にあります。「三度詣でれば生涯、中気(ちゅうき)の難よりのがれる」と言われています。 「中気」とは現在の脳卒中、脳梗塞などの急に訪れる脳の病いを総称して言いました。 四国霊場七十三番奥の院捨身ヶ嶽禅定の写し」 四国霊場には四十八の奥の院がありますが特にこの七十三番奥の院は弘法大師にとっては重要な意味があります。 弘法大師が七歳のときに「衆生を救いたい、その力がなければこの身は諸仏に捧げます」と断崖絶壁の頂きより身を投じられたが天より天女が舞い降り弘法大師を抱きとめ「一生成仏」とお示しになられた所なのです。 |
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新四国相馬霊場第81番
八 十 一 番 |
玉桜山長福寺 (廃寺) 御本尊、千手観世音菩薩 移し寺、香川県綾松山(りょうしょうざん)白峰寺 ご詠歌、霜寒く露しろたえの寺の内 みなを唱うるのりのこうごえ |
新 木 自 治 会 館 |
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中峠龍泉寺の権大僧都永楽法印の隠棲寺です。 住職は明治以後は住んでおらず、荒れ寺となってしまい傷みがひどくなり、昭和四十年頃に本堂をこわしたと土地の古老が語つてくれました。 大師堂の三方壁面には竜ヶ崎市北方の後藤藤太郎作の十六羅漢の透かし彫りが描かれています。 |
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